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秋庭史典(名古屋大学大学院情報学研究科)

名古屋大学大学院情報学研究科・情報科学研究科

感覚言語

基盤研究(C)15K02105 関連テキスト

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「Telescoreプロジェクト」を考える(秋庭史典)

0 はじめに 1 日本文化の再考から、あるべき現在形の日本画へ 2 文化の異種混交性(hybridity)を前提に、その土地ならではの何かを求める 3 コラボレーションを通して両者が変わること 4 文化の未来形へ

0 はじめに
以下は、telescoreプロジェクトの代表者であり日本画家のiyamari氏に2016年11月20日(日)に、東京八重洲ホール102会議室で行ったインタビューをもとにして作成された。。

1 日本文化の再考から、あるべき現在形の日本画へ
telescoreプロジェクトの代表者であるiyamari氏は、多摩美術大学の日本画出身のアーティストである。しかしながら、一見したところ、日本画とtelescoreプロジェクトには、それほど明らかな共通点がないようにも思われる。そこではじめに、なぜ日本画家であるiyamari氏が、このようなプロジェクトに至ったのかを確認しておこう。 あらかじめ答えを述べてしまうと、このプロジェクトは、iyamari氏の、日本文化と日本画に関する深い洞察から出発しているのである。以下、それについて説明する。
インタビューの冒頭、iyamari氏は、「日本画ルネサンス」と言われた。日本画ルネサンスとは、その語のとおり、日本画の原点に立ち戻り、そこで得られた知見を現在に生かす、という意味である。そこには、われわれがよく知る日本画、すなわち、樹のパネルに和紙をはり膠と岩絵具で描画する、それが日本画であるという常識への懐疑が表明されている。氏によれば、日本画がそのようなものと捉えられるようになったのは、「せいぜい戦後(第二次世界大戦後)」のことらしい。 では、日本画の原点とは何なのか。氏によれば、それを考えるには、「日本文化のベースになっている宗教観・生活観・家屋の構造」にまで遡らなければならない。
そのように考え考察を重ねた結果、氏は、日本文化の特徴が、「モノではなく、モノが置かれている空間や場、あるいはその空気感をつくるところにある」という結論に至ったという。茶道、華道などもそうだが、氏が特に例として挙げたのが、水琴窟だった。水琴窟は、いうまでもなく水滴の落下が生み出す音を聴かせるものだが、それは、水琴窟だけが存在していてもだめで、その音を部屋のなかに居ながらにして聴くことができる日本家屋の構造、そしてそれらすべてを取り巻く空間全体の構成が不可欠である。
もうひとつ、氏が挙げる日本文化の特徴とは、そうして作られた空間は、間(ま)、隙間でもあって、何もないところにも何かを見出す、情報の読み取りの文化だということである。和歌の世界が典型であるが、氏が挙げたもうひとつの例が、移し香であった。それは、そこにいない人が存在する時間と空間をつくりあげ、その不在を読み取らせる装置なのである。金屏風でさえ、もともとは、蝋燭の灯を映す反射板であり、それにより独特の空間をつくりあげるための間接照明用器具だった、と。 そのような考察から氏が導き出した結論が、日本画もまた、「空間あるいは場をつくっていくもの」ではないか、ということだ。和紙をはったパネルに岩絵具で描画することが目的なのではなく、なんらかの装置を考案して、濃密な読みとりが可能な、しかし表面的には緩やかな、そうした情報空間をつくりあげること、それがあるべき日本画の現在形なのだ、ということだろう。仮にそれが、現代美術に由来するインスタレーションと呼ばれるものに似ているように見えるとしても、その出自はまったく異なるのである。telescoreプロジェクトもまた、氏のこのような考えに基づいている。

2 文化の異種混交性(hybridity)を前提に、その土地ならではの何かを求める
telescoreプロジェクトは、切り倒された樹から樹拓をとり、その樹拓を音に変換し、その音に映像がつけられ、さらにその音に応じてダンサーが踊る。その意味では一種の総合芸術であるが、その際、樹拓の素材に選ばれる樹がその土地を代表するものであることが、重要である。今回、日本をテーマにした第一作で、氏が選んだのは「桜」であった。しかしながら、日本=桜と聞くと、それはステレオタイプではないかという疑問が生じるかもしれない。日本文化の絶対的本質などといったものを、氏は信じているのだろうか。 この点についての氏の考えは、きわめて明確だった。氏は、ある文化がどのようなものか、たとえば「日本文化とは何か」という問いへの答えは、「他の文化との比較からしか出てこない」し、どのような文化も、「日本と同様、他のさまざまな地域のさまざまな文化が(宗教的交流や侵略などを通して)流入してできている」のであるから、そうした異種混交性を排した絶対的でステレオタイプ的な「らしさ」というのはありえないと言う。むしろ「それでは意味がない」とまで言うのである(こうした氏の考えには、幼少期のワールドミュージック体験が影響しているという)。しかし、だからこそ氏は、「その土地ならではのものを求める」というのだ。 異種混交性を前提としたうえで、その土地ならではのものを求める姿勢。一見相反することのように思われるが、これから計画されている氏のイギリス連邦滞在中の制作の構想を聞くと、そうではないことがわかる。以下、それについて述べる。

3 コラボレーションを通して両者が変わること
イギリス滞在中に行うことは何か、という問いに、氏は少なくとも二つのことを平行して行う、と答えた。ひとつは音楽に関すること、もうひとつは樹とダンサーに関することである。
イギリスでも、日本と同様、樹から樹拓をとり、その樹拓をもとに音楽を制作する予定だが、そこでおそらくは第一の変化があるだろう、と言う。それは、樹拓から音楽を制作する際、プログラム的にはいったんドレミファソラシドの音階に変換するのだが、それを最終的にどのような音階に落としこむかは、それとは別に決定しなければならないということである。日本でも雅楽の音階に落とし込むための工夫を施したが、イギリスでは、4(5)音階に落とし込む必要があるかもしれない、と。
ただ、実際にそれがいわゆる4(5)音階になるかどうかはわからない。現地で調査を行い、過去さまざまな文化が流れ着いては混交していったであろうその様子を思い描き、そのなかで、ほんとうに現在その土地に根差している音階を発見的に探し当てなければならない、という。その音階を決定するには、土地の歴史や風土ももちろん勉強しなければならない。そのようにして、自分がその土地に対してもっている先入観を振り落とし、新しく、その土地をほんとうに代表している音階は何かを構築していくのだ、と。その土地の異種混交性を認識し、そのうえで、何かほんとうに重要な音階かを見極める作業を行うことを通して、その土地の文化的背景を理解する。
と同時に、その作業を通して、自分自身のその土地に対する認識もまた変わる(よって自分も変わる)、そのことが重要である、と言う。その土地でほんとうに大事な樹は何であるかを探すことについても、音階と同じ作業が不可欠であるだろう。
逆の方向もある。現地で見つけたダンサーあるいはアクターに、その土地の樹を表現してもらうよう頼まなければならない。しかし、それが簡単なことではないのだ、と言う。日本の「舞踏家は人間でないものを表現するのに長けているが、世界にはそうではないパフォーマー、アクターの方が多い」、つまり「アクターは人間しかアクトしない(あくまで人間が何かを演じる、という視点である)」。それゆえ、そういうアクターに、「樹になってください」という依頼をしたとしても、彼らには何を頼まれているかがわからないかもしれないし、理解されたとしてもどんなものが出てくるかは、まったくの未知数なのである。そしてこの点で、自分自身だけでなく、彼らにとっても実験的な要素が出てくる。彼らもまた変わらざるを得ないのである。
そのようにして、「普段の彼らのやり方ではないもの、普段のわたしのやり方ではないもの」の両方が出てきて初めて、このプロジェクトの意味がある。両者が変わることこそ、コラボレーションの意味なのだ。しかしながら、だからこそ、その土地を愛し、その樹を知っている人でなければならない。そうでなければ、そもそもその樹になるよう依頼することさえできないだろう。 コラボレーションを通した異種混交の過程だからこそ、その土地ならではの人やものを求めるという一見相反する考えの内実は、このようなものであり、それはきわめてまっとうなものなのである。

4 文化の未来形へ
氏によれば、今後イギリスだけでなく、各国に滞在し、同様の試みを行うという。またそれらの試みの結果を、相互に比較可能なかたちで展示することを構想しているという。それはどのようなものになるだろうか?  すでに述べたように、氏は、原点に戻って現在あるべき姿を模索し、その傍ら、同様のアプローチを用いて他の文化を生きる人々と交わりながら、そのコラボレーションの両側で変容を生じさせることを目指している。原点をふまえた新しい文化の構築、いわば文化の未来形を構想するiyamari氏のtelescoreプロジェクトが引き続き進展していくことを、楽しみに待ちたいと思う。
(2017年2月12日、秋庭のブログに掲載したテキスト。一部、字句を修正した。2017年2月10日発行の『報告書』pp.4-7)

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三つの異なる指示書間の比較を通した触譜の向上可能性とその実現について (秋庭史典)

はじめに
本稿では、「感覚の変換」を促す三つの指示書−アーティストiyamariによるtelescoreプロジェクトで用いられている樹拓スコア(注1)、荒川修作+マドリン・ギンズによる『意味のメカニズム』に登場するパネル(さまざまな種類があるが、英文あるいはその日本語訳で何らかの指示が書かれているものを念頭においている)、そして鈴木理絵子と鈴木泰博によって開発された触覚刺激記譜法としての触譜(tactile score(R)、Suzuki & Suzuki 2014)(以下それぞれ、樹拓スコア、パネル、触譜と略記する)―を比較してみる。何もヒントのないところからそれぞれの指示書を眺めることから始めて、徐々にヒントを増やしていく。ヒントが増えていくことで、それぞれの見え方がどう変わるかを考えよう。この作業によって、それぞれの指示書がもつ特徴を、明らかにできるかもしれない。その特徴を組み合わせて、触譜をよりよいものにすることができるだろうか? あるいは、その可能性は、すでにして触譜のなかに取り入れられているだろうか? これらの点について、以下ごく手短に確認することが本稿の目的である。

1 ヒントなし
まず、何のヒントもなく、これらの指示書が目の前に置いてあるとしよう。いかなる制度的・学問的文脈も与えられることなしに(つまり、これは・・・のジャンルに属し、・・・を意味し、・・・のように使用されるなどの情報をいっさい与えられることなしに)、どの指示書(ということもわからない状態で)がいちばん取り付く島があるだろうか? それぞれについて記してみよう。

樹拓スコア・・・もう少しはっきり年輪が出ていれば、これが樹の断面であることは誰にでもわかるだろう。そこに縦横のラインが入っているから、樹齢でもはかっているのかな、というくらいの想像はできるかもしれない。しかし、この画面から、それが樹の断面の拓本とわかる人は、ほとんどいないと思われる。ということは、これが何かもまったく想像できないということになる。樹拓スコアが本領を発揮するのは、この段階ではない。
パネル・・・面白いかどうかは別にして、画面には、読める英文が書いてある。なので、英語さえクリアできれば、だれでも取り組めるのである。これが何かがわからなくても、ともあれそこに文が書いてあり、その文は、英語に一定の理解がある人であれば、読めるのである。パネルは、すでにこの段階で、その本領を発揮し始めている。英文が命令文で書かれているので、これが何かを指示していることも、この時点で伝わっている。仮に英語がわからないとしても、日本語版には日本語訳が書いてあるので、それが日本語であることはわかるはずだ。もちろん、見る人に読ませるテキスト画面を作成することは容易ではなく、その点でこのパネルはすごいのだが、それについて、今はおいておく(興味のある方は、樫村1996、磯崎1996を参照のこと)。
触譜・・・おそらく、たいていの人にとって、これは楽譜の一種に見えるだろう。しかし実際には、楽譜として読んでしまうと意味をなさない。触譜(ということすらわからない段階で)は、本領を発揮し始めてはいない。しかし、これが楽譜に似たものとみられた時点で、何かの指示書であることはすでに伝わっており、その点は、樹拓スコアと大きく異なっている。

ということで、意外かもしれないが、万人に開かれている(これが美術か何かはまったく関係なく)のは、パネルなのだった。

2 名称を与える
次に、それぞれ、「これは樹拓です」、「これは『意味のメカニズム』です」、「これは触譜です」と、見る人に、その名称を与えてみよう。

樹拓スコア・・・これが何かわからなかった人には、樹の拓本とわかってびっくりかもしれないが、そこから先は特に進まないかもしれない。とはいえ、縦横の線について、それは何かを測るものであると考える人は増えるかもしれない。とはいえ、拓本が何かわからない人、魚拓などからの連想ができない人は、どこにも進めないかもしれない。
パネル・・・これには名前(タイトル)がある。『意味のメカニズム』だ。もっと言えば、このパネルにはタイトルがあり、それは、「意味の諸段階」である。英語が読めて、タイトルもわかる。その結果、身体も動くのである。口を閉じて(英文から読み取られた身体の動き)発音してみる(これも同じく英文から読み取られた身体の動き)。そして、これが「意味の諸段階」だと言われると、そうかな、という気もしてくる。口を閉じて発音すると、意味がわからないけど、開けて発音すると意味がわかる。そこで、なるほど、意味には段階があるかもね・・・という連想がはたらくかもしれない。
触譜・・・これは触譜です。触るため、フェイシャル・マッサージを行うための譜面です。楽譜ではありません・・・。しかしこれでも、まだよくわからないだろう。ただし、驚きは与えられる。触れるためのが譜面があるのか!と。

つまりここまででも、(意外にも)実はまだパネル優位なのである。なぜか? それは、自然言語がそのまま使用されているからである。英語か日本語のわかる人であれば、特別な訓練なしに、それを読み、実践することはできるのである。

3 読み方を教える
次に、それぞれの指示書の基本的な読み方を教えるとどう変わるだろうか? 

樹拓スコア・・・樹拓の濃淡が明暗に置き換えられ、この明暗がさらに音に置き換えられる、というもっとも基本的な説明を与えてみよう。見る人に変化が起こるだろうか? おそらく何も起こらないだろう。濃淡をどう明暗に読み替え、読み替えられた明暗がどう音に対応させられるのか、わからないからだ。したがって何も音は浮かんでこず、見る人にとってはそれ以前と同じく、何もすることがない。実際、その詳細なアルゴリズムは、あくまで作家の側にあり、鑑賞者に明示されることはない。
パネル・・・最初のとっつきやすさとは逆に、この時点で、見る人はやることがなくなるだろう。英文を読んだ、理解した、その理解に沿って、体を動かしてみた。ここまではアルゴリズムのようなものがある。しかし、では、そこから何をすればよいのか? 何を考えればよいのか? パネルはここで大失速するのである。
触譜・・・触譜に記されているすべての記号には、対応するものがある。腕の動かし方、動かすスピード、手のひらのどの部分を使うか(接触面積)、どの程度の力を入れるか(圧力)、右手と左手は、どれくらいシンクロするのか・・・。ここからが触譜の本領発揮である。それぞれの記号の意味が分かったからといって、すぐにすべてのマッサージがこなせるわけではないと思われる。しかし、訓練次第で上達の可能性が開かれるのである。見る人は、ここに至って、演る人に変わる可能性が開かれる。

見る側に手渡される明示的アルゴリズムがあるかどうか。そこがひとつの分かれ目になる。そして、それがどの段階で手渡されるかも、ひとつの分かれ目になる。樹拓スコアでは、渡されるアルゴリズムはまだない。パネルでは、最初に自然言語を通じて渡された後、消失する。触譜では、何も説明がなければ渡されることはありえないが、いったん説明され渡されれば、それは見る側にとって常に同じものとして残り続け、見る側を演じる側に確実に変えていくことができる。

4 実例(あるいは実体験)を与える
では、次に、説明ではなく実例あるいは実体験を与えるとどうであるかを考えよう。ただしこの場合、実体験があるかそれとも実例しかないかは大きな違いとなる。

樹拓スコア・・・樹拓から(見る側に知られることのない)アルゴリズムを経て音楽が作られ、その音が聞えてくるとしよう。これは実例による実体験を与えられること。この音楽は、快をもたらすかもしれない。しかし、まだ見る側は、それを聞いて、どう受け止めてよいかは、わからないだろう。とはいえ、これが「アート」であるか否かに関係なく、快ければ耳を傾け続けるだろう。その意味では、見る側の関りは強くなっている。
パネル・・・パネルには、写真がついていて、パネルの使い方を教えているようにも見える。これは実例なのか? いや、それを見ても何も考えられないだろう。パネルには、実例がない。実体験しかない。写真の動作を真似てみることはできるが、真似てみたところで、そこから先には進めない。快感情は生じない。しかし実体験はある。実体験は、英文の読み取りを行った時点で、すでに始まっているが、実体験は、自分が始めることでしか始まらない。快はない。ここからは、いよいよパネルが「芸術」であることを認めなければ何も進まない。それを「芸術」と思う人はさらなる体験を追求するだろうし、そう思わない人は、体験を終了するだろう(追求の過程については、樫村1996)。
触譜・・・実例=ビデオ、あるいは他人が体験しているのを見る。真似したくなるだろう。実体験=実際にマッサージをしてもらう。そのとき見る人は、直接に快を感じる。自分もそのようなマッサージができれば、と思うだろう。このような体験により、見る人は、さらに先へ進もうとするだろう。

5 身体運動への変換はどこで起きているか?
以上見てきたように、それぞれの指示書は、それぞれに、本領を発揮し始めるポイントが異なっている。また、それぞれが、見る人の身体運動に変換されるポイントも異なっている。

樹拓スコア・・・音楽を聴くことは振動を受け取ることである、と考えれば、すでに身体運動が始まっていると考えることもできるが、通常考えられるような身体運動は、まだ見る人の側に起こっていない。
パネル・・・英文あるいはその訳文である日本文を読み、発音している段階で、すでに見る人の身体運動が関与している。しかし、その後は、どのような身体運動を関与させればよいのかは、不明になり、人によってはそれを伴わなくなるだろう。
触譜・・・読み方を教えられて以降は、常に身体運動が伴っている。実例による実体験を与えられて以降は、快感情にも導かれて、見るだけでなく、演じる人になることもできる。

6  それぞれが本領を発揮するポイントを組み合わせると、触譜を向上させることができるのではないか。

いま仮に、見る側の関与の高低を軸として想定してみれば、次のように書けるであろう(図は省略しています)。もちろんこれは、いわゆる主観的な「絵」にすぎない。 けれども、ごく単純に考えて、この図に表された、三つの指示書それぞれが本領を発揮し始めるポイントの違いに基づき、触譜をよりよいものにできるのではないか。すなわち、触譜よりも早く見るものへの関与を始めるパネル的要素を触譜の前に、触譜よりも後から見るものへの関与を強める樹拓スコア的要素を後ろにつけることで、触譜をより活性化できるのではないかと思われる。パネルの利点とは、だれにでも理解できる文テキストと造形表現により、特別な専門知識なしでも、見る人がアクセス可能なことであった(もちろんそうしたものを作るのはかなり難しいことなのだが)。また、ここまででは触れていないが、樹拓スコアでは、この後、樹拓スコアに基づく音に映像と舞踊が加わり、プロジェクトの全貌が示される。それにより、音響映像の与える効果、さらには舞踏家の身体が与える衝撃によって、見る人の身体的関与が高まっていく。見る人はそれら(樹拓スコア、音、映像、舞踊)を総合的に解釈し、作品の生成に関与していくのである。であるなら、触譜もまた、音になり、舞踊になることによって、見る人の関与をさらに高められるのではないか、と考えられるのである。
そして実際、触譜は、すでにそのように発展してきているように見える(したがって、ここまでの考察は、結果的に、すでにそのように発展してきた触譜が、なぜそう発展すべきであったのかを跡付けるための補助線を見出す作業であったことになる)。すなわち、同じく鈴木理絵子と鈴木泰博によって行われてきた子供への「触れきかせ」絵本は、それが言語(原初の言語である母音)を用いている点で(秋庭2015)、パネル的であり、原初的な身体の開発のように見える(パネルの場合は「再開発」だが)。そして、(同一の触譜=振動を基にした映像音響舞踊表現芸術である)作品「マッチャトリア」は、樹拓スコア的であり、鑑賞者の解釈にも開かれていくのである。  以上より、触譜は、それを向上させる可能性を、すでにしてありうべき方向で(もちろんこの考察などとはまったく独立に)開拓していたことを確認した。。

(注1)iyamari(2016)を参照のこと。ただし「樹拓スコア」という名称は、秋庭がここで便宜的に与えたものにすぎない。

参考文献
秋庭史典(2015)「美学的主題としてのこども―触育と触話(触れきかせ)」、『リア』第35号、pp.66-68
荒川修作、ギンズ・M・H(1979)『意味のメカニズム―進行中の著作1963-1971, 1978、荒川修作の方法に拠って』ギャラリー・たかぎ
磯崎新(1996)「矢印作家アラカワは何故ニューヨークで不遇なのか」『現代思想 総特集:荒川修作+マドリン・ギンズ』Vol. 24-10, pp.388-393
樫村晴香(1996)「アトリエの毛沢東―その精神病的=分析哲学的表象システムと上下反復運動の論理的解明」『現代思想 総特集:荒川修作+マドリン・ギンズ』Vol. 24-10, pp.163-189
iyamari(2016)Telescore Project [http://www.iyamari.info/exhibitions]
Suzuki, Y., Suzuki, R. (2014), Tactile Score: A Knowledge Media for Tactile Sense, Springer.

(以上、『報告書』pp.15-20、字句は一部訂正している。)

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